【考察】なぜ『インセプション』はクィア映画なのか ―夢と現実、死と生、異性愛と同性愛―

インセプション(字幕版)

インセプション』のクィアネス

 

 2010年公開の大ヒット映画『インセプション』の大きなテーマは夢、そして潜在意識だ。フロイトは「夢は欲望の表れである」と考えた。公開から11年が経過した今も根強い人気を持つ『インセプション』だが、作中で描かれる夢の中に、登場人物の欲望を表現するようなものはあまり見当たらない。現れるのは逆さになった街、ペンローズの終わりのない階段、廃墟のビル群…超現実的で無機質なものばかりだ。ノーラン作品全般に言える傾向だが、本作はロマンスとは無縁な印象を観客に与える。

 

 しかし、よく見ると『インセプション』はクィアネスに満ちている。それは出演者のエリオット・ペイジが2020年にトランスジェンダー男性であることを公表したことや、イームスが女性に変身すること、アーサーとイームスが元恋人同士のように頻繁にイチャついていることだけが理由ではない(「もっと大きな夢を見ることを恐れちゃダメだよ、ダーリン」)。

 

 『インセプション』で特に重要なのは、主人公コブと依頼人サイトーの関係だ。二人には作中で最も強いケミストリーがある。また、サイトーはコブを救う存在であり、コブはサイトーを救う存在だ。そして、二人のやり取りには常にセクシャル・テンション(性的緊張)がある。本記事では、彼らを中心に『インセプション』を読み解いていく。

 

 結論から言えば『インセプション』は「ゲイまたはバイセクシャルの主人公が魅力的な男性と出会い惹かれ合うが、潜在意識にある死んだ妻への罪悪感がその思いを邪魔する話」と見ることも出来る。



コブ、サイトー、モルの三角関係

 

 『インセプション』の主人公コブは、ターゲットの夢に潜入してアイディアを植えつけたり盗むことができるスパイだ。しかし、彼の潜在意識もその夢に反映される。そのため、彼は亡き妻モルの幻影に悩まされる。『インセプション』の夢の世界で起きることは、コブの願望や葛藤も含まれているのだ。

 

 冒頭で、二人の出会いが回想される。コブはサイトーに潜在意識を守る重要性を説く。

コブ:僕はあなたの心を探り、秘密を見つける方法を知っています。そのトリックを教えれば、たとえ眠っていてもあなたの防御は崩れない。もし手助けが必要なら、あなたは僕に対して完全にオープンである必要があります。僕はあなたの妻よりも、セラピストよりも、誰よりも、あなたをよく知らなければならない。これが夢で、あなたが秘密でいっぱいの金庫を持っているなら、その中身を教えてください。これを実現するためには、あなたは僕を完全に受け入れなければなりません。

 

 「妻よりも、セラピストよりも、誰よりも、あなたをよく知らなければならない」「あなたは僕を完全に受け入れなければならない」…コブがサイトーに語る言葉は初対面から熱烈だ。眠っているので多少強引な言葉が効くのかも知れないが、口説いているような雰囲気すら感じられる。また「あなたは僕に対して完全にオープンである必要がある」と言われ、サイトーは面白そうに微笑む。

 

 外に出るとモルが立っている。アーサー曰く、モルは近頃さらに頻繁に現れるようになったらしい。彼女はコブに「私が恋しかったでしょう?」と聞く。モルの幻影は、コブの罪悪感が生み出していることは作中で明言されている。彼女はコブがサイトーに惹かれていることへの後ろめたさの象徴とも読み取れる。

 

 彼の罪悪感には、娘と息子の存在も関係している。「子どもたち、寂しがってる?」と聞くことで、モルはコブをけん制する。もしコブが新しいパートナーを連れてきたら、母の記憶がまだ新しい子どもたちはショックを受けるかも知れない。子どもたちから間接的に母を奪ったのはコブなので、なおさら自責の念は強い。サイトーと関わるようになってから、彼女が現れる頻度が増したのはそのためだろう。

 

 また、コブは同性愛嫌悪を内面化していて、同性に惹かれること自体に気がとがめているのかも知れない。彼は男性パートナー(サイトー)と子どもたちと共に新たな人生を始めたい気持ちと、罪の意識から解放されていいのか?という負い目の狭間で悩んでいるのだ。モルは、基本的にコブの作戦を妨害するよう行動する。まるでミッションが成功して幸福になることを、コブ自身が拒んでいるかのように。

 

フランシス・ベーコンの絵画

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Study for Head of George Dyer. 1967.

 サイトーの屋敷には、フランシス・ベーコンの『ジョージ・ダイアーの頭部のための習作』が飾られている。モルに「アーサーの好み?」と聞かれたコブは「20世紀の英国絵画は標的の好みだ」と答える。

 

 ベーコンは同性愛者であり、周囲にも自身のセクシュアリティを隠さなかった。『インセプション』に登場するこの絵画は、1964年から彼が交際していたジョージ・ダイアーを描いたものだ。ダイアーはベーコンの恋人として最も有名で、多くの作品に描かれている。

 

 二人は「泥棒と家主」から始まったという有名な逸話がある。これは、コブとサイトーの関係とも重なる。ある夜、ベーコンのアトリエの天井から落ちてきた男がダイアーだった。彼は盗みが目的だったが、一目惚れしたベーコンはベッドへと誘い、その日から二人は恋人同士になったという。

 

 サイトーから情報を盗むため、コブが夢の中に侵入したのが二人の出会いだった。まさに泥棒と家主の関係だ。二人もベーコンとジョージのように、奇妙な状況の中で一瞬で恋に落ちたことを示唆しているのではないだろうか。

 

コブの葛藤

 

 サイトーはコブたちに同行する。アリアドネに「チームには、あなたが何に悩んでいるか理解している人が必要よ」と言われ、コブはサイトーの方を見る。つまり、コブが悩んでいるのはサイトーへの感情なのだ。

 

 また、作戦が決行され、コブたちはロバートの防御反応とモルの記憶から攻撃を受ける。真っ先に撃たれるのはサイトーだ。コブの潜在意識は、サイトーを脅威と判断して排除しようとしているのだ。

 

 サイトーが痛みに苦しみながらもコブと交わす会話には、二人の強い結びつきが表れている。

サイトー:コブ、死んでも約束は守る。

コブ:それはありがたいが、目を覚ましたときには約束をしたことすら覚えていないだろう。虚無が現実になるんだ。迷いこみ、尽きぬ絶望の中で老いていく。

サイトー:後悔を抱えて?。

コブ:孤独に死を待つ。

サイトー:いいや、私は戻る。そして二人で一緒に若い男に戻ろう。

 

 ”二人で一緒に若い男になろう”という言葉には、なんとも性的な雰囲気が漂っている。

 

 撃たれたロバートを追って眠りについたコブは、第三階層でモルと対峙する。モルは「ここにいることを選んで。私を選んで」と懇願する。「現実の世界とやらで、あなたは何を信じ、何を感じているの?」と、モルはコブの感情に対して批判的だ。

 

 コブはサイトーを探しに行くと言い、モルに別れを告げる。彼女は激昂し、コブを攻撃する。コブはモルと夢の中で一緒に年老いたことを思い出す。彼は「一緒に年を取ろう」というモルとの約束を果たしていたのだ。その記憶により、彼の傷は癒える。虚無で自分自身を見失うリスクがあるというのに、コブはサイトーの元へと向かう。

 

Take a leap of faith(信念のために跳べ)

 

 コブに依頼を持ち掛けた際、サイトーはこんな言葉を口にする。

サイトー:さて、信じて飛び込むか、それとも後悔を抱えて、孤独に死を待つ老いた男になるつもりか?

 

 ”Take a leap of faith.(信じて飛んで)”は死の間際にモルが口にした言葉と同じだ。ここでもコブ、サイトー、モルの三角関係が強調されている。

 

 Leap of faithとは「信仰のための跳躍」を意味する言葉で、哲学者キルケゴールの思想に基づいている。キリスト教は理性では理解が難しいが、それでもあえて信仰に身を投じよう、という考えだ。宗教的な意味合いが強いが、「結果が不確定でも思いきって決断すること」を意味する日常的なフレーズとしても使われる。

 

 モルはこの言葉を、死への誘惑として口にする。対して、サイトーは生への希望だ。二人が別々の意味で同じ「信じて跳べ」という言葉を口にするのは、非常に象徴的だ。

 

 これをクローゼットな同性愛者に当てはめてみるとどうだろう。死の世界とは、自身のセクシュアリティを隠したまま愛する人と過ごせない人生。生の世界は、愛する人謳歌する人生だ。

 

 モルとサイトーは夢/現実、死/生、過去/未来、異性愛/同性愛として、どこまでも対になっているのだ。『インセプション』は、コブが二つの世界の間をさまよい葛藤する姿を描いている。

 

 また、このフレーズには「たとえこの世界が夢か現実か分からなくても、そんなことは関係なく自分の信じる方に向かって飛び込め」という本作全体の持つ人生賛歌が表れている。

 

いいえ、後悔なんてしない

 

 「後悔を抱えて、孤独に死を待つ老いた男になるつもりか?」という言葉もまた、クローゼットな状況と重なる。コブがサイトーに惹かれる自身の気持ちを認めなければ、後悔を抱えて生きることになる。

 

 夢の終わりのカウントダウンとして、エディット・ピアフの「Non, Je Ne Regrette Rien(いいえ、後悔なんてしない)」が繰り返し使われる。この曲は「モルを亡くした後悔を断ち切らなければ、コブは本当の意味で夢から覚めることはできない」ことを示唆しているようにも聞こえる。

 

 虚無で何十年と年を重ねながらも、サイトーはコブを待っていた。サイトーが築き上げたのはアーサーが設計した城。コブと初めて出会った場所だ。それほど、コブとの出会いは彼にとって鮮烈な記憶だったのだ。自分を失いかけていたコブもまた、サイトーとの再会によって記憶を取り戻す。これがロマンチックな展開でなくて何だろう。

 

 サイトーはコブに「信じて跳べ」と言った。コブは同じ言葉をサイトーに語りかける。コブの”I've come back for you... to remind you of something. Something you once knew...(あなたのために戻ってきたんだ...あなたに何かを思い出させるために。あなたがかつて知っていた何かを...)””Come back… Come back with me.(戻ってきてくれ…一緒に帰ろう)”という言葉は、恋人に呼びかけるような響きがある。

 

 また、コブはサイトーに彼から言われた「一緒に若い男に戻ろう」という言葉を語りかける。これもまた、彼がモルに言った「一緒に年を取ろう」という言葉と対になっている。これはコブとサイトーが、コブ/モル夫妻とは全く違うタイプのカップルであることを象徴しているようだ。

 

 かつてコブは、モルを目覚めさせるために彼女を騙さなければならなかった。しかし、今回は違う。コブはサイトーに嘘をつくことなく、思い出で通じ合うことができた。そして一緒に現実に戻ることができた。彼の贖罪は完了したのだ。

 

 目を覚ましたコブは、サイトーと目配せする。ラストシーン。トーテムを頻繁に気にしていたコブが、もうコマを気にしなくなっている。彼は自分の選択に自信を持ち、生きている実感を得た。それだけで十分なのだ。もうコブにとって、コマが回り続けているかは些細な事だ。彼は妻の幻ではなく、サイトーを選んだのだから。このあと二人の関係がどのように展開するかは不明だが、今回の一件はコブの人生に大きな変化をもたらしたことだろう。

 

 さて、『インセプション』は本当にコブとサイトーのラブストーリーが根底にあるのか、その判断は本記事を読んで頂いた皆様におまかせする。しかし、彼らの心の繋がりがたびたび描かれ、サイトーと亡き妻モルが明確に対比されていることから、『インセプション』は偶然か意図的かは不明だがクィアネスに満ちている。また、クィアな視点を盛り込むことで、本作は更に重層的な楽しみ方ができるのではないかと思う。

 

 私は『インセプション』はクィア映画だという信念に向かって跳ぶことにしよう。

 

 

 

 

映画『グッド・ネイバー』感想と考察

※本記事は2019年10月の記事を加筆修正したものです。

 

POVサスペンス映画『グッド・ネイバー』を観たので、感想と考察を書いていきます。

グッド・ネイバー(字幕版)

グッド・ネイバー(字幕版)

 
  • 原題 The Good Neighbor
  • 監督 カスラ・ファラハニ
  • 脚本 マーク・ビアンクリ,ジェフ・リチャード
  • 主演 ジェームズ・カーン, キーア・ギルクリスト, ローガン・ミラー

 まず『グッド・ネイバー』の簡単なあらすじをご紹介します。

『グッド・ネイバー』のあらすじ

高校時代から友人同士の若者イーサンとショーンは、ある実験を企てる。
イーサンの向かいの家に一人で住む老人ハロルドに怪奇現象のドッキリを仕かけ、霊がいると思い込ませるというのだ。
ショーンは心理的実験が半ば目的だったが、イーサンは動画をアップして再生数を稼ぎたいという野望があった。


物語は二人の実験から数か月後の裁判の様子を交えながら進む。
二人はハロルドの家の中にいくつも監視カメラを仕かけて実験を行った。ドアに細工して、誰も触っていないのに何度も開け閉めする。部屋の温度を異常に下げる。オーディオに細工して勝手に音楽を流す。
二人が起こす現象を目撃しても、ハロルドは動じない。
むしろドアを衝動的にオノで破壊したり、地下室に一晩こもるなど怪しい行動を取る。

※ここからラストネタバレ

イーサンとショーンは地下室に何かが隠されているのではないかと疑う。
母子家庭のイーサンは、母が父に暴力をふるわれてハロルドの家に逃げ込み、結局離婚したという過去があった。今回の実験はイーサンの私的な恨みが混ざっていることが少しずつ明らかになる。

二人は嘘の通報をして警察に地下室を捜索させるが、怪しいものはなかった。
ある日、犬に監視カメラを落とされ、しびれを切らしたイーサンはハロルドが寝ている隙に家に忍び込み、地下室に入る。

 

イーサンは地下室を物色するうちにベルを触ってしまい、ハロルドが目を覚ます。
イーサンは最後のイタズラとして、ベルを一階のテーブルの上に移した。
ベルを見たハロルドは拳銃自殺する。

実はハロルドにはガンで亡くなった妻がいた。ベルは妻が自分を呼ぶときに大声を出さなくて済むよう、ハロルドが送ったものだった。
妻の霊がいると思い込み、ハロルドは自ら命を絶ったのだった。

イーサンとショーンは起訴の末有罪となったが、二人に課されたのは2年の保護観察と500時間の地域奉仕のみだった。
ショーンは落ち込み、家族に連れられて裁判所を出た。
イーサンはたくさんの報道陣に囲まれ、笑みを浮かべるのだった。

 

感想と考察

Netflixで鑑賞。

予想以上に面白かったです。遊び半分で誰かを傷つけることの罪を描いた作品でした。

「グッド・ネイバー(The Good Neighber)」は直訳すると「良き隣人」という意味ですね。

 

最初はよくあるPOV式のサイコサスペンスホラーかと思っていました。

宣伝ポスターの雰囲気から「若者たちが嫌がらせした老人はサイコ殺人鬼だった!居場所を突き止められて血の復讐が始まる!とんだ"良き隣人"だぜ!」という話なのかと…。

 

実際、若い女性と部屋で密会する回想シーン(実は妻を世話する訪問看護師だった…)が挟まれたり、至る所にそういう話だと思わせるミスリードが仕掛けられていたので、まんまと騙されました。

浮気がバレて妻を殺してしまい、遺体を地下室に埋めたデンジャラス爺さんの話だと観客に思わせる手法でしたね。

 

けれど、どんどん予想を覆されて話にのめり込んでしまいました。ハロルドが自ら命を絶つシーンで、話が360°引っくり返るのです。

彼は妻を最期まで見守り愛した、とても善良な人間でした…(泣)

 

考察ですが、ハロルドは主人公二人が怪奇現象のようなイタズラをしたことで「妻の霊がいる。私を迎えに来たのだ」と思い込んでしまったのですね。

ハロルドがイーサンの両親の離婚の原因になったのも、イーサンの母を支えて夫と別れるよう説得した、というのが真相という感じがします。

エンドクレジットで浮かびあがるタイトルが突き刺さりました。彼は本当に「良い隣人」だったのに…。なんとも物悲しい結末でした。

 

(ただ、12年間孤独だったハロルドにとって「妻の霊がいる」というのは嬉しいことだったかも知れないですね。

そう考えると、イーサンとショーンは彼の寂しさを和らげられたのかも…?ここをツッコむと話がこんがらがるので深く考えないことにしますが。)

 

ラストのイーサンの「有名になれた」という薄ら笑いの表情が恐ろしいかったです。

でもこういう若者って実際にいそう…。

 

ネット動画で有名になることを目論む描写がリアルでした。

人気取りのためにモラルのない動画を投稿するSNSユーザーがよく報道されていますが、そんな恐怖も描かれていました。

 

動画配信サイトやSNSが発達してなんでも「見る」ことができる時代になったけれど、その向こう側の人生を想像する力が失われつつあることを示唆しているような作品でした。

本当は、人って他人が想像するよりずっと色々なことを抱えているものですよね。

そんなことまで気付かされ、小品ですが良作でした。

 

以上、『グッド・ネイバー』のあらすじと感想考察でした。

ジョーダン・ピール監督作『アス』感想と考察

※本記事は2019年9月公開の記事を加筆修正したものです。

 

ジョーダン・ピール監督の新作ホラー映画『アス』を観ました。ドッペルゲンガーたちに日常を侵略される恐怖と、アメリカの社会問題を重ねた風刺的ホラーでした。

映画「アス」ポスター

『アス』

2019年アメリカ映画

監督・脚本・製作:ジョーダン・ピール

主演:ルピタ・ニョンゴ、ウィンストン・デューク

『アス』タイトルの意味

タイトル「アス」の意味は「私たち」です。
USは「合衆国」を意味するUnited States(ユナイテッド・ステイツ)を連想させるので、恐らくダブルミーニングではないかと思います。

ジョーダン・ピール監督について

映画『アス』を語る前に、ジョーダン・ピール監督の作風について触れなければなりません。


ジョーダン・ピール監督は1979年1月21日生まれ。アメリカ・ニューヨーク市出身です。アフリカ系アメリカ人の父と、イギリス系の白人の母の元に生まれました。両親は離婚し、母の元で育ちました。


ジョーダン・ピール監督は元々コメディアンです。テレビ番組でキーガン=マイケル・キーと意気投合し、お笑いコンビ「Key & Peele」を組んで活動していました。


この「Key & Peele」のコントは、めちゃくちゃ面白くてアメリカでも人気です。彼らを一躍有名にしたのは「オバマ大統領の怒りの通訳」というコント。


『アス』を理解する上で参考になる作品を何作かご紹介します。

こちらは「Make A Wish(願い事をして)」というコント。
ジョーダン・ピール監督演じる難病の少年(かなり薄気味悪い)の元に「病気の子どもの夢を叶える」というボランティア団体の女性が訪れます。しかし、少年の願い事は下品で邪悪なものばかりで…。
ピール監督とキーの熱演が笑えますが、オチが秀逸です。
無垢であるはずの子どもが不道徳な言動で大人を怯えさせるというテーマはオーメンエクソシストを連想させます。

 

もう一つは「There's a Murderer in the Hall of Mirrors(鏡の部屋に殺人犯がいる)」です。
タイトル通りの作品。キー演じる刑事は、鏡張りの部屋で殺人鬼を追いつめます。どことなくハンニバル・レクターに似た殺人犯は刑事をあざ笑いますが、彼はなんだか詰めが甘くて…という話。
この鏡張りコントは『アス』のオープニングを想起しますね。

 

Key & Peeleはホラーテイストの作品が多いです。


ジョーダン・ピール監督はリブート版『トワイライト・ゾーン』を手がけることが決まっています。ジョーダン・ピール監督は子どもの頃から『トワイライト・ゾーン』のファンだったそうです。元々ホラー好きなんですね。

また、アメリカの人種差別を風刺するコントが多いのも特徴です。
おバカさと社会派のバランスが絶妙なコンビなのです。

 

前作『ゲット・アウト』はこの作風を活かし、人種差別そのものを風刺しつつホラーの題材にしてしまった傑作スリラーでした。

 

恐怖と笑いは紙一重ピール監督の映画は生々しくてかなり恐怖度の高い作品が多いですが、もし演出やテンポを変えたら一気にシュールなコメディ映画になりそう…と考えると興味深い。(『ゲット・アウト』の「白人ガールフレンドの家に遊びに行ったら競売にかけられた」という展開も、キー&ピールの風刺コントにありそう)


同じ題材でもコミカルに演じるとコントになり、シリアスな演出を加えるとホラーになる…そんな絶妙なバランスがジョーダン・ピール監督作品の魅力ですね。
それでは、映画『アス』は一体何を描こうとしたのでしょうか。

 

まずは映画『アス』のあらすじを説明します。※結末をネタバレしています。

映画『アス』あらすじ

1986年、チャリティイベント「ハンズ・アクロス・アメリカ」が行われた年。幼いアデレード・ウィルソンは、両親とサンタクルーズ・ビーチの遊園地を訪れます。アデレードはミラーハウスに迷い込み、自分そっくりな少女と出会います。彼女はその後の記憶を失い、トラウマで失語症になっていました。

 

アデレードは成長するにつれ失語症を克服。結婚し、長女ゾーラと長男ジェイソンを授かりました。ときは現在。ウィルソン一家はサンタクルーズの別荘を訪れました。アデレードは子どもの頃の体験を思い出して不安になります。様々な現象がシンクロして、まるでミラーハウスの少女の襲来を予告しているかのようでした。

 

その晩、一家は別荘の外に奇妙な4つの影を発見します。夫のゲイブは彼らを追い払おうとしますが、別荘に侵入されてしまいます。4人はウィルソン家と全く同じ顔をしていました。アデレードと同じ顔を持つ「レッド」は、ゾーラと同じ顔を持つ「アンブラ」、ジェイソンと同じ顔を持つ「プルート」、ゲイブと同じ顔を持つ「アブラハム」を紹介します。彼らはそれぞれ大きなハサミを持っていました。あなたたちは何者?と聞かれたレッドは「私たちはアメリカ人だ」と宣言します。

 

ウィルソン一家はそれぞれドッペルゲンガーたちを倒し、友人のタイラー家の別荘に逃げ込みます。しかしタイラー家はドッペルゲンガーたちによって皆殺しにしていました。ウィルソン一家は死闘の末タイラー家のドッペルゲンガーを倒します。ニュースでは、アメリカ全土でドッペルゲンガーたちによる殺人が起きていると報道されていました。

ウィルソン家はメキシコに亡命しようと車を走らせますが、ビーチにプルートが待ち伏せしていました。咄嗟の機転によりプルートを倒しますが、ジェイソンがレッドに誘拐されます。レッドの後を追ったアデレードは、ミラーホールの地下に巨大な施設を発見します。施設には何羽もの兎たちが放されていました。

 

レッドと対峙したアデレードは真実を聞かされます。ドッペルゲンガーは人間によって生み出された「テザード」と呼ばれるクローンでした。地上の人間たちはテザードを見捨て置き去りにしました。何世代にも渡って地下に閉じ込められたテザードたちは、ただ地上の人間たちの動きを模倣していました。レッドは特別な能力を持つ存在で、テザードたちを率いて地上を侵略しました。

 

アデレードは戦いの末、レッドの息の根を止めました。ジェイソンはロッカーに隠れてその様子を見ていました。アデレードはジェイソンを連れて地上に生還し、無人の救急車に家族を乗せてメキシコへと出発しました。

 

運転しながら、アデレードは1986年に起きたことを思い出しました。本物のアデレードを気絶させ、声帯を傷つけ、地下に置き去りにしたのは自分でした。ドッペルゲンガーアデレードの方だったのです。その頃、報道ヘリコプターは上空から地上を撮影していました。無数のテザードたちが手をつなぎ「ハンズ・アクロス・アメリカ」を作っていました。

 

「ハンズ・アクロス・アメリカ」の説明

1986年5月25日(日)に行われた慈善イベント。

約650万人が15分間手をつなぎ、米国全体を横断する人間の鎖を作ることを試みました。参加費は10ドルで、収益はホームレスやアフリカの貧困に苦しむ人々を支援する慈善団体に寄付されました。

このイベントは約3,400万ドルを集めましたが、運営費用を差し引いて寄付されたのは約1500万ドルでした。

 

『アス』感想と考察

得体の知れない他者に家を侵略され、乗っ取られる…このお馴染みのテーマを扱ったホラー作品は多々あります。

映画だと『ファニー・ゲーム』や最近だと『ノック・ノック』など。安部公房の『友達』もそんな話だったような。


「住処を奪われる」こと人間(と動物たち)にとって本能的な、非常に根源的な恐怖だからでしょう。また、住処は人間のアイデンティティと密接に繋がっています。人はたびたび住む場所によってラベリングされます。


"侵略者たち"の物語によって、私たちは住居や肩書に頼っている己のアイデンティティの不確かさを思い知り、恐怖を覚えるのかも知れません。

 

ちなみにテザード=the Tetheredは直訳で「つながれた者」という意味です。これは実験体として「(鎖に)つながれた」という意味と、「手をつないだ」という意味をかけたダブルミーニングかと思います。彼らは「ハンズ・アクロス・アメリカ」そのものの亡霊なのかもしれません。

 

ルピタ・ニョンゴの怪演が素敵でした。ただ、レッドとアデレードの声が違うのがちょっと残念でした。
せっかく同じ顔なので、どちらが本物か家族が惑わされる…という展開を期待していたのですが、声が違うので「それはない」とすぐに分かってしまいました。

 

「コール・ザ・ポリス!(警察呼んで!)」と叫んだらアレクサ的なAIがN.W.Aの「ファック・ザ・ポリス」を流す展開に笑いました。
ジョーダン・ピール監督らしく、前作よりもジョークが多めのホラーでしたね。

 

さて考察ですが、『アス』のテーマはズバリアメリカ社会の分断」です。
ジョーダン・ピール監督はプレミア後のQ&Aコーナーで「『アス』はアメリカという国が部外者に対して抱く見当違いの恐怖についての映画」だと述べています。


トランプ政権によって、移民排除の傾向が強くなったアメリカ。

全米各地で移民を狙った銃乱射事件や、ヘイトクライムが増えています。
アデレードが見つけた地下施設への入り口は、トランプ大統領が建設を目指している「国境の壁」の隠喩ではないかと思います。

部外者(移民)が自分たちを攻撃するだろうと被害妄想を抱き、「自分たち」と「その他」を分断する精神の象徴です。

 

ウィルソン家とドッペルゲンガーの対立はアメリカ国民の経済的格差」のメタファーでしょう。
ウィルソン一家は比較的裕福な家庭です。別荘を持ち、中古ですがボートを購入する余裕もあります。

アフリカ系アメリカ人はプールがない家が多いため泳げない人が多いのですが、ゲイブは湖を泳いで助かります。このことからも、彼が中流以上の家庭出身であることが分かります。
テザードたちは、中産階級が手を差し伸べようとしない貧困家庭(移民含む)を表しているのだと思います。

 

物語の結末で、アデレードはレッドの命を奪います。レッドの身の上話を聞き、同じ国に生きる仲間として受け入れるという選択肢もあったはずです。しかし、アデレードは彼女を拒絶する道を選びました。
ジョーダン・ピール監督は、こうも語っています。
「私たちが本当に直視しなければならない怪物は、おそらく私たちと同じ顔をしていると(この映画で)提案したかったのです。悪、それは私たち(Us)です」(The Vergeより)


ピール監督が『アス』で描きたかった恐怖は、苦しむ人々に目を向けず壁を隔てて追い払う、アメリカそのものなのではないでしょうか。これはアメリカに限ったことではなく、日本を含む格差社会全てに当てはまることでしょう。

 

ラストで印象的に映し出されテザードたちによる「ハンズ・アクロス・アメリカ」は「今こそ80年代の相互扶助の心を取り戻し、手を取り合おう」というジョーダン・ピール監督からのメッセージなのではないかと思います。

 

恐怖は少なめですが、メッセージ性をかなり前面に押し出している作品でした。

 

さて、今回はジョーダン・ピール監督のホラー映画『アス』について解説&考察しました。映画『アス』は『ゲット・アウト』でアカデミー賞を受賞したジョーダン・ピール監督の作品で、アメリカ社会を比喩的に風刺した映画でした。本記事で映画『アス』に興味を持たれた方は、是非本編をご覧になってみてください。

【解説&考察】映画『ライトハウス』に見るクィアな欲望と抑圧(ネタバレあり)

※本記事は映画『ライトハウス』のネタバレ考察です。また、一部暴力的なテーマを含みます。苦手な方はご注意ください。

7/31 一部加筆修正

はじめに

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 映画『ライトハウス』について、監督のロバート・エガースは「巨大な男根(灯台)の中に男が二人きりで囚われたとき、ろくなことは起こらない」と語った。『ライトハウス』はアイデンティティ、支配と服従についての物語であり、主演のロバート・パティンソンの言葉を借りれば「奇妙で有毒なラブストーリー」だ。

 

 監督は本作を「答え以上に謎を重視している映画だ」と明言している。『ライトハウス』を定義することは非常に難しいが、何層にもメタファーが重ねられた物語の根底には、ホモエロティックな欲望と抑圧がある。本記事では『ライトハウス』のクィアネスに注目して作品全体を考察していく。

 

二人の灯台

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 『ライトハウス』は、絶海の孤島に取り残された二人の灯台守の物語だ。一人はトーマス・ウェイク(演:ウィレム・デフォーという名の老練の男。もう一人はイーフレイム・ウィンズロー(演:ロバート・パティンソンと名乗る若者だが、それは偽名であり、本名はトーマス・ハワードだということが後に明らかになる。

 

 ウェイクはハワードに高圧的な態度を取り、手間のかかる仕事を一方的に命じる。そして灯りの管理は自分の仕事だと言い張り、ハワードを決して灯台の最上部の部屋に立ち入らせない。ただし、これはハワードから見たウェイクの姿だ。『ライトハウス』は二人の登場人物がどちらも信用できない語り手であり、何が真実で何が幻か分からない構造となっている。

 

 ハワードはかつてカナダの森で木こりをしていた。しかし一緒に働いていたイーフレイムという男が亡くなり、彼になりすました。そして賃金が目当てで灯台守の職に就いたという。ウェイクもかつて灯台に別の同僚がいたが、精神が錯乱して死んでしまったと言う。後に、ハワードはウェイクの元同僚の遺体を発見する(これも幻覚の可能性がある)。二人のトーマスはどちらも秘密を抱えている。

 

奇妙な力関係

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 多くの考察で語られているように、ウェイクには父性と男性性のメタファーが散りばめられている。豊かな髭と元船乗りという境遇は、ギリシア神話の海神プロテウスを連想させる。プロテウスは「海の老人」と呼ばれ、予言の能力を持つ。ウェイクはハワードの最期を予言していた。

 

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Illustration of Proteus by Andrea Alciato from The Book of Emblems (1531)

 それ以外にも、ウェイクが超能力(過去を見通す、心を読む)を持っているような描写が多々ある。また、彼はハワードの「罪」のひとつひとつを日誌に記録している。これは最後の審判の日に人々を裁くというキリスト教の神を思わせる。ウェイクには近寄りがたく厳格な「父なる神」のイメージが重ねられている。

 

 ウィレム・デフォーハフポストのインタビューで『ライトハウス』の二人の関係について「まさに有害な男らしさ。彼らは、自分は何者であるかという恐怖と脅威から互いに挑発し合っている」と語っている。モノクロの映像と狭まった画角が、画面から伝わる二人の閉塞感と緊張を高める。

 

※有害な男らしさ…伝統的に「男はこう振る舞うべき」とされる社会規範のうち、社会や男性自身に害を与える側面が強いと考えられるもの。女性蔑視、同性愛嫌悪、男は強くなければならないという意識などが例として挙げられる。

 

 しかし、ハワードは不平等なことを命じられても強くは反抗しない。むしろ最初は従順で、ウェイクに受け入れてもらいたいと願っているかのようだ。ウェイクは最悪なモラハラ上司だが、結論から言えば、ハワードは彼に惹かれている。

 

 「父の元を離れてから金になる仕事は何でもしてきた」という台詞から、ハワードは唯一の家族だった父親を置いて家を出たことが分かる。彼はウェイクに父性を求めているのだ。

 

 ロバート・パティンソンは同インタビューで「序盤のシーンで彼は必死になって(ウェイクを)喜ばせようとしています」と語る。

 

「反抗するのは、注目を集めて罰を受けたがっているのです。彼は、おそらく非常に過酷な人生を送ってきた人物だと思います。(中略)悪いことをしてきて、そのことにすごく罪悪感を感じていて、基本的には何か慰めを求めているんだけど、どうやって頼んだらいいのか、どう話せばいいのかわからない。それが躁状態や過剰なまでの肉体労働に表れています」

 

 "弱い"とされる感情を押し殺す行為は、「有害な男らしさ」の特徴にも当てはまる。

 

 しかし、むしろハワードは男性性以上に「女性性」を恐怖しているようだ。彼は自分の中にある「男らしさ」から逸脱していると見なされる側面を恐れているのだろう。それを知ってか知らずか、ウェイクはハワードを「絵に描いたような美人」「女みたいに輝く瞳」と表現し、挑発する。ウェイクがいわゆる「女性的」ジェンダーロールを押し付けられようとするからこそ、ハワードはそれに抗おうとしているのかも知れない。

 

 しかし同時に、彼は明らかにウェイクに性的関心を持っている。屋根の隙間からウェイクの露出した尻を覗き見したり、ウェイクが灯りの前で裸になって行う「儀式」を憧憬のような眼差しで見つめたりする。(その最中に触手が見えるが、本作におけるタコのような触手はウェイクの男性器を意味しているのだと思う。触手がハワードを拘束するシーンがある)

 

 しかし彼には、おそらく内面化した同性愛嫌悪がある。そのため暴力や寡黙、過重労働など「男らしい」とされる行動に打ち込み、自分の感情をごまかし排除しようとする。

 

内面化した同性愛嫌悪(Internalised Homophobia)レズビアン、ゲイ、バイセクシャルなどの性的マイノリティ人々が、成長するにつれて社会の不寛容や偏見にさらされ、それらの考えを自分の中で真実だと思い込み自己嫌悪に陥ること。羞恥心や憂鬱感、自尊心の低下など、本人に精神的な苦痛を与えることがある。また、他のLGBの人々を嘲笑したり攻撃するなど、同性愛嫌悪的な行動をとることで距離を置こうとする例もある。

 

 4週間以上共に過ごした二人は、酒を飲み交わし、優しく抱き合って踊り、口付け寸前まで顔を近付け合う。しかしハワードはウェイクを突き飛ばし、取っ組み合いを始める。

 

 また、ハワードは岩場で人魚を発見する。最初はその美しさに見とれるが、下半身を見て逃げ出す。人魚はあざけるように彼を笑う。

 

 ハワードは人魚像を使って性的妄想をする。しかし自分のセクシュアリティを否定するために女性の幻影に執着しているだけなので、妄想の中の光景はグロテスクだ。そして、自慰の最中もイーフレイムの姿がフラッシュバックしてしまう。彼が本当に求めているのはイーフレイムなのだ。

 

イーフレイムに何が起ったか?

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 ハワードが眠っているウェイクから鍵を盗もうとするシーンがある。しかしふと表情を変え、キッチンナイフを取り出してウェイクに向ける。刃物で脅してレイプしようと考えたのだろう。しかし、気配を察して目覚めたウェイクは顔色ひとつ変えない。彼の存在など自分には何の影響も及ぼさない、とでも言うように。孤独と虚しさに襲われたハワードは「あんたは人の心を失ってしまったんだ」と悲しげに呟く。

 

 おそらく、ハワードは木こり時代にイーフレイムにも同じことをした。フラッシュバックで現れるイーフレイムの顔は、そのときの記憶だ。そして口封じのために事故死と見せかけて彼を殺したのだ。

 

 もしくは…ウェイクに対する態度と同じように、彼はカナダでも自分の感情をうまく表現することができなかったのかも知れない。ハワードの思いに気付いたイーフレイムは、彼に辛く当たったのかも知れない。あるいは長い間共に孤立したことで同性愛関係が芽生えたが、森を出るときになって別れ話を切り出されたか。関係を持ったことをハワード自身が後悔したか(記憶か妄想かは不明だが、ハワードがイーフレイムとセックスしているように見えるフラッシュバックシーンがある)

 

 いずれにせよ彼はイーフレイムを死なせ、その名前と身分を乗っ取った。灯台守という職を選んだのは、島を転々としていれば捕まりにくいという考えもあったのだろう。

 

 イーフレイムの殺害について、別の場面にもヒントがある。ハワードが灯台の展望台で倒れている(脚本では”死んでいる”)自分を発見するシーン。倒れている方のハワードはイーフレイムの服を着て足を縛られており、真っすぐになった下半身は人魚を思わせる。また、男を水中に沈めるフラッシュバックシーンがある。つまりハワードは、イーフレイムの足を縛ったまま水中に入れて溺死させたのだ。

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 ハワードが見つけた人魚の像は、縛られた人間の姿にどことなく似ている。そのためイーフレイムの姿が重なったのかも知れない。また、人魚は女性の異形であり、性器の形状が曖昧だ。ハワードは性的ファンタジーに合うように自由に想像することができる。彼が空想した性器はサメなどのそれで、人間のものではなかった。

 

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Photo: A24

 追記:ハワードがカモメを殺すシーンでは、井戸の中でカモメが溺れていた。彼はその姿を見て、自分がイーフレイムにしたことを思い出したのではないだろうか。ウェイクはカモメには死んだ船乗りの亡霊が宿っていると言った。イーフレイムも海鳥に化けて追ってくるかも知れない…。そんな彼をあざ笑うかのように片目のカモメが襲ってきたので、彼は逆上したのではないだろうか。

 

 また、愛する男の命を奪ってなりすます犯罪者という設定はパトリシア・ハイスミスの1955年の小説『太陽がいっぱい』を思わせる。ハイスミスレズビアンだった。『太陽がいっぱい』では、主人公リプリーが大富豪の息子フィリップを船の上でナイフを突き立てて殺害する。ナイフは男性器のメタファーであり、リプリーはフィリップを手に入れて同一化するために刺したのだと考察されている。

 

 話が逸れたが、ハワードもまたイーフレイムと同一化する願望を果たしたのだ。過去を捨てたかったという発言から、彼は以前にも問題を起こしていたことが分かる。そのため、新しい自分になる必要もあったのだろう。

 

 ハワードは自分の戦果を見せびらかすように(または亡き恋人から受け継いだ名前を愛おしむように)自分からイーフレイム・ウィンズローという名で呼んでほしいと切り出す。

 

 しかし、アルコールの摂取と極限状態がハワードを変えていく。ウェイクに秘密をばらしてしまったことで彼は動揺し、島を出ようとする。

 

混沌と破滅

 また、彼はウェイクが灯台のような光線を出して自分に”催眠術”をかけるのを見る。脚本では、それは恐ろしくも「何よりも明るい」光で、ハワードは「魅了される」と書かれている。彼はウェイクに惹きつけられ支配されることを恐れている。

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Sascha Schneider, Hypnosis, 1904

 この「光」の場面は、ドイツの画家サシャ・シュナイダーの絵画『催眠術』のオマージュだ。シュナイダーは男性の肉体美とホモエロティシズムに満ちた作品を多数発表した。彼は同性愛者だったが、同居していた男性に同性愛者であることを公表すると脅迫されたため、大学の権威あるポストを辞してイタリアに移ることを余儀なくされた(当時のドイツで同性愛は違法だった)。

 

  ハワードはウェイクにボートを破壊される。しかし「お前が壊したんだ」と言われ混乱する。その後、彼は日誌を見つける。そこにはハワードについて勤務態度が悪いため「無給の退職を勧める」という文言が書かれていた。

 

 懸命に働いてきたつもりだったハワードは怒り、口論となる。かつてイーフレイムに言われた「お前は犬だ」という言葉が引き金となり、彼はウェイクに掴みかかる。

 

 揉み合ううちにウェイクの姿がイーフレイムとなり、人魚となり、沢山の触手を持つ海の怪物へと変化する。前述の通り触手は男性器を表している。また、ウェイクの姿が醜悪で恐ろしいのは、ハワードが自身のセクシュアリティを恐怖していることの表れだ。

 

 海や自然は人間の力では操れないものであり、謎に満ちていて、喜びと同時に危険をもたらす。さらに(ハワードが意識しているか分からないが)動物には同性同士で番いになるなどクィアな個体が多く見られる。男性/女性、異性愛/同性愛といった人間の定める二項対立を超えているのが自然だ。ハワードの潜在意識の中でも、性的指向は海(自然)と結びついているのだろう。

 

 その引力から逃れようと、ハワードは怪物となったウェイクを殴りつける。しかし我に返ったとき、目の前に横たわっているのは弱り果てた老人だった。ハワードは完全に興奮していて股間を押さえている。彼はウェイクを犬と呼び、”Now roll over.(うつ伏せになれ)”と命令する。

 

 このカットで、ハワードがウェイクをレイプしたことが示唆される。ここで権力構造の逆転が起きる。暴力的で支配的な面がハワードを飲み込んでしまう。一時は料理をめぐってケンカするなどパートナーのような親密さを見せていたのに。

 

 ハワードはウェイクを犬のように繋いで歩かせる(ちなみにsea-dogは英語でアザラシだが「熟練船乗り」という意味もある)。そしてあらかじめ掘っていた墓穴へとウェイクを落とす。

 

 関係ないが"Bury your gays(埋葬されるゲイ)"と呼ばれる物語の類型がある。これはフィクションにおいて、悲劇的な死を迎えるLGBTのキャラクターが多いことを批判する言葉だが、ハワードは文字通り自分でそれをやってしまうのだ。

 

 ハワードはウェイクから鍵を奪い「灯りの部屋」へと向かう。しかし途中で煙草が吸いたくなる(殺人のあとに煙草を吸うのが彼のルーティンらしい)。そこに息絶えたはずのウェイクが襲いかかる。ハワードはウェイクの頭に斧を叩きつけ、息の根を止める。

 

 階段を昇るハワード。なぜか彼の顔は黒く染まっている(白黒なので実際の色は分からない)が、これはウェイクの血だろう。おそらくハワードは興奮状態のあまりウェイクの遺体をーーー食べた、または犯したのだ。

 

 ハワードは「もしここにステーキがあったら、ステーキとヤってやる」と発言していた。ウェイクを絶命させたあと、彼が唱えたのは「食前の祈り」だ。また、彼はイーフレイムから名前を奪ったが、ウェイクから奪えそうなものは少ない。そのため、今回は食べることによってウェイクと同一化を果たしたのかも知れない。

 

 ついにハワードは灯りと対面する。しかし光に触れて取り乱し、階段を転がり落ちる。目覚めると、彼は全裸の状態で岩場に横たわっていた。腹の傷から内臓が飛び出しており、それをカモメがつつく。灯台は見えない。空には彼を餌食にしようと、何十羽もの海鳥の群れが飛び交うのだった。

 

灯台とは何か

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 さて、二人の男が愛憎劇を繰り広げた灯台とは一体何だったのか。怪奇現象か、アルコールや灯油中毒が見せた幻か、北米の森の中で悪夢を見ているだけなのか、はたまた絶海でクトゥルフ神話のような邪神に魅入られたのか?

 

 私は「地獄もしくは煉獄説」に一票入れたい。(※煉獄…カトリック教会の教義で、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間。天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。Wikipediaより)

 

 ハワードは生前にイーフレイムを殺害した。そして何らかの理由で命を落とし、同じ過ちを繰り返さないかあの世で試されている。高圧的な上司、隔絶された状況など、灯台でのシュチュエーションがカナダの森に似ているのはそのためだ。彼は記憶を消されていて、自分が死んだことを覚えていないのだと思う。

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Dante, Virgil, and Charon crossing the River Styx

 二人が船で島に到着する冒頭は、ギリシア神話の三途の川アケロンを思わせる。アケロンにはカロンという名の渡し守がいて、「光る眼を持つ長い髭の無愛想な老人」とされている。ダンテの『神曲』では、カロンは地獄に登場する。ハワードもまた水の上を渡って死後の世界へと案内される。

 

 ウェイクは冥府の使いであり(偶然かも知れないが英語のwakeには弔問、通夜という意味がある)、ハワードを見張り、導く存在だ。しかし死者を徹底的に試す冷徹な面も持っている。ウェイクが灯りを守ることは、人間の光の面、善性を守っていることのメタファーだ。

 

 しかしハワードは結局また同じ過ちを犯してしまった。そのため、ギリシア神話のプロメテウスのような過酷な罰を受けることになった。階段を転げ落ちる姿は、地獄の底に落ちていく光景と重なる。

 

 ハワードは灯りに触れて、自分が死んでいることを悟ったのだろう。もしかしたら彼は、このループを既に何度も何度も繰り返しているのかも知れない。カモメに生きたまま食べられて絶命し、また記憶を消されて島に到着するのだ。自分が終わりのない悪夢の中にいることを知り、錯乱したのかも知れない。

 

本当の痛み

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 しかしハワードが凶行に及んだ背景には、前述の通り、自己否定や内在化した同性愛嫌悪があるのではないかと思う。19世紀末アメリカの異性愛規範や差別、マイクロ・アグレッション(何気ない日常の中での偏見や侮辱)も彼を追いつめたことだろう。

 

 もちろん精神的な重圧を受けた人が必ずしも犯罪者になるわけではない。しかしハワードは冒頭からずっと不安を感じ、常にアイデンティティが揺らいでいるように見える。重要なのは、彼を狂わせているのは彼のセクシュアリティではなく、それを受け入れられないことから来る恐怖なのだ。

 

 こんな解釈はどうだろう。灯台はあの世だが、ウェイクは年老いたハワード自身、または彼の別人格だ。ハワードとウェイクが同一人物だと考えられる要素は多い。同じトーマスという名前で、足を引きずっていて(階段から落ちた際に骨折した可能性がある)、 灯りに固執している。また、二人は昼と夜の仕事をそれぞれ担当している(自我と超自我のメタファー)。

 

 そして片目のカモメもハワード自身だ(彼はラストカットで片目が盲目になっているように見える)。ハワードは人間からカモメへと転生を繰り返しながら、自分しかいない世界で試練を受けている。それは孤独と罪悪感の空間だ。

 

 もしかしたら、いつか彼が異性愛規範や「有害な男らしさ」を捨ててウェイクを受け入れられたとき(自己受容したとき)に、このループは終わりを迎えるのかも知れない。しかし、それまでは延々と傷つけあうことになる。社会に強制された同性愛嫌悪から来る自己否定は、自分自身に臓腑をついばまれるような痛みだからだ。

 

 そう考えると、『ライトハウス』は性的マイノリティの人々が抱える葛藤や苦しみを寓話的に描いた映画とも言える。

 

 念のため付け加えると、これらはあくまで私一個人の考察だ。また、本作は観客一人一人が異なる見方が出来る稀有な作品だと思う。本記事が『ライトハウス』をさらに深く鑑賞する上で、少しでも"灯り"を提供できたなら幸いだ。