【解説&考察】映画『ライトハウス』に見るクィアな欲望と抑圧(ネタバレあり)
※本記事は映画『ライトハウス』のネタバレ考察です。また、一部暴力的なテーマを含みます。苦手な方はご注意ください。
7/31 一部加筆修正
はじめに
映画『ライトハウス』について、監督のロバート・エガースは「巨大な男根(灯台)の中に男が二人きりで囚われたとき、ろくなことは起こらない」と語った。『ライトハウス』はアイデンティティ、支配と服従についての物語であり、主演のロバート・パティンソンの言葉を借りれば「奇妙で有毒なラブストーリー」だ。
監督は本作を「答え以上に謎を重視している映画だ」と明言している。『ライトハウス』を定義することは非常に難しいが、何層にもメタファーが重ねられた物語の根底には、ホモエロティックな欲望と抑圧がある。本記事では『ライトハウス』のクィアネスに注目して作品全体を考察していく。
二人の灯台守
『ライトハウス』は、絶海の孤島に取り残された二人の灯台守の物語だ。一人はトーマス・ウェイク(演:ウィレム・デフォー)という名の老練の男。もう一人はイーフレイム・ウィンズロー(演:ロバート・パティンソン)と名乗る若者だが、それは偽名であり、本名はトーマス・ハワードだということが後に明らかになる。
ウェイクはハワードに高圧的な態度を取り、手間のかかる仕事を一方的に命じる。そして灯りの管理は自分の仕事だと言い張り、ハワードを決して灯台の最上部の部屋に立ち入らせない。ただし、これはハワードから見たウェイクの姿だ。『ライトハウス』は二人の登場人物がどちらも信用できない語り手であり、何が真実で何が幻か分からない構造となっている。
ハワードはかつてカナダの森で木こりをしていた。しかし一緒に働いていたイーフレイムという男が亡くなり、彼になりすました。そして賃金が目当てで灯台守の職に就いたという。ウェイクもかつて灯台に別の同僚がいたが、精神が錯乱して死んでしまったと言う。後に、ハワードはウェイクの元同僚の遺体を発見する(これも幻覚の可能性がある)。二人のトーマスはどちらも秘密を抱えている。
奇妙な力関係
多くの考察で語られているように、ウェイクには父性と男性性のメタファーが散りばめられている。豊かな髭と元船乗りという境遇は、ギリシア神話の海神プロテウスを連想させる。プロテウスは「海の老人」と呼ばれ、予言の能力を持つ。ウェイクはハワードの最期を予言していた。
それ以外にも、ウェイクが超能力(過去を見通す、心を読む)を持っているような描写が多々ある。また、彼はハワードの「罪」のひとつひとつを日誌に記録している。これは最後の審判の日に人々を裁くというキリスト教の神を思わせる。ウェイクには近寄りがたく厳格な「父なる神」のイメージが重ねられている。
ウィレム・デフォーはハフポストのインタビューで『ライトハウス』の二人の関係について「まさに有害な男らしさ。彼らは、自分は何者であるかという恐怖と脅威から互いに挑発し合っている」と語っている。モノクロの映像と狭まった画角が、画面から伝わる二人の閉塞感と緊張を高める。
※有害な男らしさ…伝統的に「男はこう振る舞うべき」とされる社会規範のうち、社会や男性自身に害を与える側面が強いと考えられるもの。女性蔑視、同性愛嫌悪、男は強くなければならないという意識などが例として挙げられる。
しかし、ハワードは不平等なことを命じられても強くは反抗しない。むしろ最初は従順で、ウェイクに受け入れてもらいたいと願っているかのようだ。ウェイクは最悪なモラハラ上司だが、結論から言えば、ハワードは彼に惹かれている。
「父の元を離れてから金になる仕事は何でもしてきた」という台詞から、ハワードは唯一の家族だった父親を置いて家を出たことが分かる。彼はウェイクに父性を求めているのだ。
ロバート・パティンソンは同インタビューで「序盤のシーンで彼は必死になって(ウェイクを)喜ばせようとしています」と語る。
「反抗するのは、注目を集めて罰を受けたがっているのです。彼は、おそらく非常に過酷な人生を送ってきた人物だと思います。(中略)悪いことをしてきて、そのことにすごく罪悪感を感じていて、基本的には何か慰めを求めているんだけど、どうやって頼んだらいいのか、どう話せばいいのかわからない。それが躁状態や過剰なまでの肉体労働に表れています」
"弱い"とされる感情を押し殺す行為は、「有害な男らしさ」の特徴にも当てはまる。
しかし、むしろハワードは男性性以上に「女性性」を恐怖しているようだ。彼は自分の中にある「男らしさ」から逸脱していると見なされる側面を恐れているのだろう。それを知ってか知らずか、ウェイクはハワードを「絵に描いたような美人」「女みたいに輝く瞳」と表現し、挑発する。ウェイクがいわゆる「女性的」ジェンダーロールを押し付けられようとするからこそ、ハワードはそれに抗おうとしているのかも知れない。
しかし同時に、彼は明らかにウェイクに性的関心を持っている。屋根の隙間からウェイクの露出した尻を覗き見したり、ウェイクが灯りの前で裸になって行う「儀式」を憧憬のような眼差しで見つめたりする。(その最中に触手が見えるが、本作におけるタコのような触手はウェイクの男性器を意味しているのだと思う。触手がハワードを拘束するシーンがある)
しかし彼には、おそらく内面化した同性愛嫌悪がある。そのため暴力や寡黙、過重労働など「男らしい」とされる行動に打ち込み、自分の感情をごまかし排除しようとする。
※内面化した同性愛嫌悪(Internalised Homophobia)…レズビアン、ゲイ、バイセクシャルなどの性的マイノリティ人々が、成長するにつれて社会の不寛容や偏見にさらされ、それらの考えを自分の中で真実だと思い込み自己嫌悪に陥ること。羞恥心や憂鬱感、自尊心の低下など、本人に精神的な苦痛を与えることがある。また、他のLGBの人々を嘲笑したり攻撃するなど、同性愛嫌悪的な行動をとることで距離を置こうとする例もある。
4週間以上共に過ごした二人は、酒を飲み交わし、優しく抱き合って踊り、口付け寸前まで顔を近付け合う。しかしハワードはウェイクを突き飛ばし、取っ組み合いを始める。
また、ハワードは岩場で人魚を発見する。最初はその美しさに見とれるが、下半身を見て逃げ出す。人魚はあざけるように彼を笑う。
ハワードは人魚像を使って性的妄想をする。しかし自分のセクシュアリティを否定するために女性の幻影に執着しているだけなので、妄想の中の光景はグロテスクだ。そして、自慰の最中もイーフレイムの姿がフラッシュバックしてしまう。彼が本当に求めているのはイーフレイムなのだ。
イーフレイムに何が起ったか?
ハワードが眠っているウェイクから鍵を盗もうとするシーンがある。しかしふと表情を変え、キッチンナイフを取り出してウェイクに向ける。刃物で脅してレイプしようと考えたのだろう。しかし、気配を察して目覚めたウェイクは顔色ひとつ変えない。彼の存在など自分には何の影響も及ぼさない、とでも言うように。孤独と虚しさに襲われたハワードは「あんたは人の心を失ってしまったんだ」と悲しげに呟く。
おそらく、ハワードは木こり時代にイーフレイムにも同じことをした。フラッシュバックで現れるイーフレイムの顔は、そのときの記憶だ。そして口封じのために事故死と見せかけて彼を殺したのだ。
もしくは…ウェイクに対する態度と同じように、彼はカナダでも自分の感情をうまく表現することができなかったのかも知れない。ハワードの思いに気付いたイーフレイムは、彼に辛く当たったのかも知れない。あるいは長い間共に孤立したことで同性愛関係が芽生えたが、森を出るときになって別れ話を切り出されたか。関係を持ったことをハワード自身が後悔したか(記憶か妄想かは不明だが、ハワードがイーフレイムとセックスしているように見えるフラッシュバックシーンがある)
いずれにせよ彼はイーフレイムを死なせ、その名前と身分を乗っ取った。灯台守という職を選んだのは、島を転々としていれば捕まりにくいという考えもあったのだろう。
イーフレイムの殺害について、別の場面にもヒントがある。ハワードが灯台の展望台で倒れている(脚本では”死んでいる”)自分を発見するシーン。倒れている方のハワードはイーフレイムの服を着て足を縛られており、真っすぐになった下半身は人魚を思わせる。また、男を水中に沈めるフラッシュバックシーンがある。つまりハワードは、イーフレイムの足を縛ったまま水中に入れて溺死させたのだ。
ハワードが見つけた人魚の像は、縛られた人間の姿にどことなく似ている。そのためイーフレイムの姿が重なったのかも知れない。また、人魚は女性の異形であり、性器の形状が曖昧だ。ハワードは性的ファンタジーに合うように自由に想像することができる。彼が空想した性器はサメなどのそれで、人間のものではなかった。
追記:ハワードがカモメを殺すシーンでは、井戸の中でカモメが溺れていた。彼はその姿を見て、自分がイーフレイムにしたことを思い出したのではないだろうか。ウェイクはカモメには死んだ船乗りの亡霊が宿っていると言った。イーフレイムも海鳥に化けて追ってくるかも知れない…。そんな彼をあざ笑うかのように片目のカモメが襲ってきたので、彼は逆上したのではないだろうか。
また、愛する男の命を奪ってなりすます犯罪者という設定はパトリシア・ハイスミスの1955年の小説『太陽がいっぱい』を思わせる。ハイスミスはレズビアンだった。『太陽がいっぱい』では、主人公リプリーが大富豪の息子フィリップを船の上でナイフを突き立てて殺害する。ナイフは男性器のメタファーであり、リプリーはフィリップを手に入れて同一化するために刺したのだと考察されている。
話が逸れたが、ハワードもまたイーフレイムと同一化する願望を果たしたのだ。過去を捨てたかったという発言から、彼は以前にも問題を起こしていたことが分かる。そのため、新しい自分になる必要もあったのだろう。
ハワードは自分の戦果を見せびらかすように(または亡き恋人から受け継いだ名前を愛おしむように)自分からイーフレイム・ウィンズローという名で呼んでほしいと切り出す。
しかし、アルコールの摂取と極限状態がハワードを変えていく。ウェイクに秘密をばらしてしまったことで彼は動揺し、島を出ようとする。
混沌と破滅
また、彼はウェイクが灯台のような光線を出して自分に”催眠術”をかけるのを見る。脚本では、それは恐ろしくも「何よりも明るい」光で、ハワードは「魅了される」と書かれている。彼はウェイクに惹きつけられ支配されることを恐れている。
この「光」の場面は、ドイツの画家サシャ・シュナイダーの絵画『催眠術』のオマージュだ。シュナイダーは男性の肉体美とホモエロティシズムに満ちた作品を多数発表した。彼は同性愛者だったが、同居していた男性に同性愛者であることを公表すると脅迫されたため、大学の権威あるポストを辞してイタリアに移ることを余儀なくされた(当時のドイツで同性愛は違法だった)。
ハワードはウェイクにボートを破壊される。しかし「お前が壊したんだ」と言われ混乱する。その後、彼は日誌を見つける。そこにはハワードについて勤務態度が悪いため「無給の退職を勧める」という文言が書かれていた。
懸命に働いてきたつもりだったハワードは怒り、口論となる。かつてイーフレイムに言われた「お前は犬だ」という言葉が引き金となり、彼はウェイクに掴みかかる。
揉み合ううちにウェイクの姿がイーフレイムとなり、人魚となり、沢山の触手を持つ海の怪物へと変化する。前述の通り触手は男性器を表している。また、ウェイクの姿が醜悪で恐ろしいのは、ハワードが自身のセクシュアリティを恐怖していることの表れだ。
海や自然は人間の力では操れないものであり、謎に満ちていて、喜びと同時に危険をもたらす。さらに(ハワードが意識しているか分からないが)動物には同性同士で番いになるなどクィアな個体が多く見られる。男性/女性、異性愛/同性愛といった人間の定める二項対立を超えているのが自然だ。ハワードの潜在意識の中でも、性的指向は海(自然)と結びついているのだろう。
その引力から逃れようと、ハワードは怪物となったウェイクを殴りつける。しかし我に返ったとき、目の前に横たわっているのは弱り果てた老人だった。ハワードは完全に興奮していて股間を押さえている。彼はウェイクを犬と呼び、”Now roll over.(うつ伏せになれ)”と命令する。
このカットで、ハワードがウェイクをレイプしたことが示唆される。ここで権力構造の逆転が起きる。暴力的で支配的な面がハワードを飲み込んでしまう。一時は料理をめぐってケンカするなどパートナーのような親密さを見せていたのに。
ハワードはウェイクを犬のように繋いで歩かせる(ちなみにsea-dogは英語でアザラシだが「熟練船乗り」という意味もある)。そしてあらかじめ掘っていた墓穴へとウェイクを落とす。
関係ないが"Bury your gays(埋葬されるゲイ)"と呼ばれる物語の類型がある。これはフィクションにおいて、悲劇的な死を迎えるLGBTのキャラクターが多いことを批判する言葉だが、ハワードは文字通り自分でそれをやってしまうのだ。
ハワードはウェイクから鍵を奪い「灯りの部屋」へと向かう。しかし途中で煙草が吸いたくなる(殺人のあとに煙草を吸うのが彼のルーティンらしい)。そこに息絶えたはずのウェイクが襲いかかる。ハワードはウェイクの頭に斧を叩きつけ、息の根を止める。
階段を昇るハワード。なぜか彼の顔は黒く染まっている(白黒なので実際の色は分からない)が、これはウェイクの血だろう。おそらくハワードは興奮状態のあまりウェイクの遺体をーーー食べた、または犯したのだ。
ハワードは「もしここにステーキがあったら、ステーキとヤってやる」と発言していた。ウェイクを絶命させたあと、彼が唱えたのは「食前の祈り」だ。また、彼はイーフレイムから名前を奪ったが、ウェイクから奪えそうなものは少ない。そのため、今回は食べることによってウェイクと同一化を果たしたのかも知れない。
ついにハワードは灯りと対面する。しかし光に触れて取り乱し、階段を転がり落ちる。目覚めると、彼は全裸の状態で岩場に横たわっていた。腹の傷から内臓が飛び出しており、それをカモメがつつく。灯台は見えない。空には彼を餌食にしようと、何十羽もの海鳥の群れが飛び交うのだった。
灯台とは何か
さて、二人の男が愛憎劇を繰り広げた灯台とは一体何だったのか。怪奇現象か、アルコールや灯油中毒が見せた幻か、北米の森の中で悪夢を見ているだけなのか、はたまた絶海でクトゥルフ神話のような邪神に魅入られたのか?
私は「地獄もしくは煉獄説」に一票入れたい。(※煉獄…カトリック教会の教義で、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間。天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。Wikipediaより)
ハワードは生前にイーフレイムを殺害した。そして何らかの理由で命を落とし、同じ過ちを繰り返さないかあの世で試されている。高圧的な上司、隔絶された状況など、灯台でのシュチュエーションがカナダの森に似ているのはそのためだ。彼は記憶を消されていて、自分が死んだことを覚えていないのだと思う。
二人が船で島に到着する冒頭は、ギリシア神話の三途の川アケロンを思わせる。アケロンにはカロンという名の渡し守がいて、「光る眼を持つ長い髭の無愛想な老人」とされている。ダンテの『神曲』では、カロンは地獄に登場する。ハワードもまた水の上を渡って死後の世界へと案内される。
ウェイクは冥府の使いであり(偶然かも知れないが英語のwakeには弔問、通夜という意味がある)、ハワードを見張り、導く存在だ。しかし死者を徹底的に試す冷徹な面も持っている。ウェイクが灯りを守ることは、人間の光の面、善性を守っていることのメタファーだ。
しかしハワードは結局また同じ過ちを犯してしまった。そのため、ギリシア神話のプロメテウスのような過酷な罰を受けることになった。階段を転げ落ちる姿は、地獄の底に落ちていく光景と重なる。
ハワードは灯りに触れて、自分が死んでいることを悟ったのだろう。もしかしたら彼は、このループを既に何度も何度も繰り返しているのかも知れない。カモメに生きたまま食べられて絶命し、また記憶を消されて島に到着するのだ。自分が終わりのない悪夢の中にいることを知り、錯乱したのかも知れない。
本当の痛み
しかしハワードが凶行に及んだ背景には、前述の通り、自己否定や内在化した同性愛嫌悪があるのではないかと思う。19世紀末アメリカの異性愛規範や差別、マイクロ・アグレッション(何気ない日常の中での偏見や侮辱)も彼を追いつめたことだろう。
もちろん精神的な重圧を受けた人が必ずしも犯罪者になるわけではない。しかしハワードは冒頭からずっと不安を感じ、常にアイデンティティが揺らいでいるように見える。重要なのは、彼を狂わせているのは彼のセクシュアリティではなく、それを受け入れられないことから来る恐怖なのだ。
こんな解釈はどうだろう。灯台はあの世だが、ウェイクは年老いたハワード自身、または彼の別人格だ。ハワードとウェイクが同一人物だと考えられる要素は多い。同じトーマスという名前で、足を引きずっていて(階段から落ちた際に骨折した可能性がある)、 灯りに固執している。また、二人は昼と夜の仕事をそれぞれ担当している(自我と超自我のメタファー)。
そして片目のカモメもハワード自身だ(彼はラストカットで片目が盲目になっているように見える)。ハワードは人間からカモメへと転生を繰り返しながら、自分しかいない世界で試練を受けている。それは孤独と罪悪感の空間だ。
もしかしたら、いつか彼が異性愛規範や「有害な男らしさ」を捨ててウェイクを受け入れられたとき(自己受容したとき)に、このループは終わりを迎えるのかも知れない。しかし、それまでは延々と傷つけあうことになる。社会に強制された同性愛嫌悪から来る自己否定は、自分自身に臓腑をついばまれるような痛みだからだ。
そう考えると、『ライトハウス』は性的マイノリティの人々が抱える葛藤や苦しみを寓話的に描いた映画とも言える。
念のため付け加えると、これらはあくまで私一個人の考察だ。また、本作は観客一人一人が異なる見方が出来る稀有な作品だと思う。本記事が『ライトハウス』をさらに深く鑑賞する上で、少しでも"灯り"を提供できたなら幸いだ。